きのしたまいの詳細プロフィール

はじめまして!
きのしたまいです。
わたしのプロフィールを見に来てくれてありがとうございます!

わたしの最近

まずは、現在のわたしの簡単な紹介です!

  • 23歳、フリーランスブロガー。
  • Tinderで100人以上に会いまくる!
  • 人との出会いに魅せられ1年1ヶ月勤めた予備校を退職。
  • 田舎フリーランス養成講座参加!
  • 家なし。貯金なし。

こんな感じですね。

元気いっぱいの幼少期

友達づくりが得意だった

わたし自身は全く覚えていませんが、両親の話によるとわたしは公園や同年代の子どもがいる場に行くと、自分から他の子のところへ駆け寄り「ねえねえ、わたしきのしたまいっていうの。あなたのおなまえは?おともだちになろう!」と声をかけていたそうです。幼き日のコミュ力おそるべし…。

思えばもうここから新しい人に出会って友達になるのが好きだったのかもしれません。

やんちゃに遊ぶ毎日

この頃は外遊びも中遊びも好きでした。
外遊びなら木に登ってオンコの実(わかる人いるかな?)を食べたり、秘密基地を作ったり、公園の一番高い遊具から飛び降りて根性試しをしたり、結構やんちゃでした笑 中遊びならおままごと、犬夜叉ごっこ(犬夜叉役の子にかごめ役のわたしがただ追いかけられまくる遊び)など。アクティブな幼少期でした。

夜寝る前の本がお気に入り

夜寝る前にはいつも母が絵本を読んでくれました。これがわたしが本や国語を好きになった原点だと思います。好きな絵本は「まいちゃんのいちにち」「いないいないばあ」「めっきらもっきらどおんどん」「100万回生きた猫」「ねずくんのチョッキ」「カラスのパン屋さん」など。

母は小学校の先生でもあり、絵本もたくさん持っていました。お気に入りで何度も読んでもらった絵本にはみんな、幼い頃のわたしが書いた落書きがあります。その落書きもあわせて思い出で、いまでも実家にとってあります。

引っ込み思案になった小学校時代

全校生徒50人の小学校

わたしは保育園〜小学校3年生までを北海道の紋別市上渚滑町という小さな町で過ごしました。そこの小学校は全校生徒が50人、わたしのクラスは7人でした。それだけ人数も少ないので全学年がみんな友だちで、知らない子はいませんでした。みんなのびのび育ち、学年を超えて仲良く遊んでいました。

放課後は近所のおばさんち、おやつは畑のミニトマト

また、両親が教員で共働きだったため、わたしは放課後は近所のおじさんおばさんの家に預けられるようになりました。親戚でもなんでもなく、家の裏に住んでいる人たちです。

「自分の家だと思って、家族だと思って過ごしなさい」と優しくも門限には厳しいおばさん、キャラメルを食べながら水戸黄門を見るのが大好きでわたしには甘々なおじさん、二人のおかげで小学校に上がったばかりのわたしも放課後は寂しくありませんでした。都会ではなかなかない、田舎らしいことだったなと今振り返ると感じます。

転校によって大人数のクラスにびびる

そんなとき、両親の転勤が決まり、少し大きな北見の街に引っ越すこととなりました。小学校4年生で北見の小学校に転校。そこは1クラス30人、1学年120人、全校生徒750人ほどの小学校でした。

これまでとは全然違って人数が非常に多い環境…。それまで活発だったわたしでしたが、大勢の知らない子たちに大いにびびり、すっかりおとなしい系になりました。

初めて“いじめ”を知る

転校してすぐのこと。わたしにいちばんに明るく話しかけてくれた女の子が、他の子から嫌がらせをされているのを目の前で見ました。それも、嫌がらせをしている子たちは笑顔で面白そうにしていて、女の子の方も少し笑いながら「やめてよーもー」という感じでした。

わたしは困惑していました。何が起きてるんだろう。そこに仲の良い違う女の子が来てわたしに「あの子変わってるし、アトピーで肌が荒れててきもいよね」と、仕方ないみたいな笑顔で耳打ちしました。

前までの学校では他の子とけんかをすることはありましたが、数人で一人の子に対し笑顔で嫌がらせをするということはなく、よく意味がわかりませんでした。また、「きもい」「死ね」という言葉は使わないように、と父から言われていたし、その女の子のこともきもちわるいなんて当然思いもしなくて、曖昧に笑って返すしかありませんでした。

どうして後から新しく入ってきたわたしは仲良くしてもらえて、もともといるあの子は嫌がらせされてるんだろう。きらいなら構わなければいいのに。わたしはあの子はいい子だと思うのに。そんなふうに思っていました。

わたしはその子は話しやすい相手だったのでふつうに接していましたが、わたしと仲のいい女の子はその子とわたしを引き離そうとしていました。そのたびにどちらとも仲良くしたいわたしは、曖昧な表情で、引き離そうとする女の子に手を引かれるままにされていました。

その女の子とはクラス替えで別々になり、わたしも新しいクラスで友だちができて、その子がその後どうしたのかは気にしなくなりました。

でも、違和感だけはずっと残ったままでした。その子は話して知ってみればいい子なのに、他の人と外見や行動が違うことで判断されてしまう。そう感じたことが、わたしがいろんな価値観を否定しない、相手の良いところに目が行く性格に繋がっているように思います。

オンラインゲームにハマった中学校時代

小学校の友達が誰もいない中学校へ

わたしの家族はわたしが小学校5年生のときに家を建て、また引っ越しをしました。同じ北見市内でしたが、学区が変わるため中学校からは小学校の友だちとは別の学校に通うことになりました。中学校に入学し、知ってる友達が誰もいない中、またしてもおとなしいキャラでしかも眼鏡にひっつめ髪で地味に過ごしていました。

メイプルストーリーにハマる

特に部活動に入るわけでもなく中学校生活をただ過ごしていたとき、パソコンのオンラインゲームのメイプルストーリーを知りました。当時趣味といえば本を読むくらい、中学校もそこまで楽しくなかったわたしは、オンラインで他の人と関わりながらできるメイプルストーリーにめちゃくちゃハマりました。

毎日学校が終わったら自転車をとばして家に帰り、即行で父のパソコンを開いてメイプルストーリーをやりました。ログイン時のBGMを聴くたびに、今日は誰に会えるだろう、仲いいあの子はログインしてるかな?あの人は最近何してるかな?と胸を躍らせていました。普段はパソコンのしすぎで両親に注意され時間を制限されていて、夜中にこっそりやったりしていましたが、誕生日はここぞとばかりに一日12時間以上やるくらいの熱中ぶりでした。

メイプルストーリーのゲーム自体とても楽しかったですが、ゲーム性以上に知らない人と仲良くなって一緒にプレイできるのが好きでした。

人生が変わった高校時代

私立の女子校に入学

小学校時代は90点未満をとると家から追い出されることになっていた(!)ので成績はよかったのですが、中学時代は英語と数学が苦手で一気に中の中くらいの成績になりました。高校受験では近隣でいちばん頭のいい公立高校は難しく、私立の女子校を受け合格、無事に入学しました。選んだ理由は入試の過去問の国語が解きやすかったことと、短期海外研修があったからです。海外など自分の知らない世界や、やったことのないことには惹かれました。

初恋の相手は7歳年上の大学院生

それまで部活動をしてこなかったわたしでしたが、高校では大好きで仲良しな友だちがカーリング部に入っていたため、自分も入りました。カーリングは冬の間、近所のカーリングホールで練習をするのですが、そこは近くの大学のカーリング部の人も利用していて会うことがありました。

そのときに、7歳年上の大学院生にはんぶん一目惚れみたいな形で好きになり、1年ほど片想いをしていました。バレンタインデーにガトーショコラを作って渡したり、年末に年越しカーリングをしに車で一緒に行ったり、カーリングの大会の宿泊場所が同じで夜に一緒にトランプをしたり…青春していました。

ただ、相手は来年は大学院を卒業して本州へ、わたしは来年は受験生。付き合うことは考えていませんでした。そんなことはどうでもよくて、ただただ「好き」で、その気持ちを相手に伝えないではいられない。これだけ「好き」の気持ちが大きくてあふれるから、さいごは必ず伝えてこの冬を終えよう。そうして、2年生の3月の最後の大会が終わったあと、電話で想いを伝えました。はじめての自分からの告白。感じた気持ちを無視せずに相手に伝えた大きな経験でした。

宝物になった受験生時代

わたしは高校時代も特別に成績が良いわけではなく、大学進学もあまり考えていませんでした。なんとなく高校と同じ系列の大学に進学するのかな〜くらいでした。

ただ、国語がずっと好きで、2年生の11月の模試でとてもいい偏差値を出しました(具体的な数字は覚えてませんが、70前後だったと思います)。それを見た先生たちのなかで、その年に本州の進学校からうちの高校に赴任してきた先生がわたしに「早稲田大学を目指してみたら」と言ったのです。ここから、わたしの人生は変わりました。

当時、受験や大学の知識も全くと言っていいほどなかったため「早稲田大学」と言われてもよくわからず、ふーんという感想しかありませんでした。ただ、国語が好きだったのでどこまでいけるのかと思ったことと、もう一つわたしは感じていたことがありました。

それは、長い人生の中で自分の生活や身の回りのことなど全く気にせずたった1つのことだけに本当に集中して取り組めるのは、この受験生の1年間だけなんじゃないか、という考えです。高校を卒業して大学生になったらひとり暮らしをするようになって親元から離れるし、その後は社会人になる。もちろんそのときでも本気になって何かに取り組むことはあるかもしれないけど、本当に1つのことだけに集中できるのは今しかない、と思いました。

そう感じていたので、そこからの1年間は非常にストイックに勉強しました。わたしに声をかけてくれた先生は担任ではなく国語の授業を持ってくれている先生でしたが、以前勤めていた高校での生徒たちの情報や受験知識をわたしのために使ってくれ、わたしの受験科目である国語、英語、日本史すべての指針を示してくれました。

ただの国語の先生が英語も日本史もいつまでにここまで勉強して、この模試でこれくらいの成績を取れば早稲田に受かるよ、とアドバイスしてくれたのです。本当に恵まれていたしお世話になりました。そんな信頼する先生の目の届くところに自分の身を置き、やるべきことを明確にし、勉強するときは一日16時間勉強していました。食事とトイレ以外すべて勉強です。ほんとうに当時は辛くも楽しい時間でした。

わたしは授業もわからないことはすぐに聞けるように、座席も一番前を希望して席替え時もずっと固定でした。さらに受験に必要ない科目の授業では一番前の席にもかかわらず全く違う参考書や問題集を開いて勉強していました。でも、わたしが早稲田大学を目指していることは高校の先生方全員が知っていて、いつも黙認してくれていました。また、わたしの高校は制服の襟の裾を超える長い髪は結ばなければいけない校則でした。でも、他の人は注意されていても、わたしが注意されることはほとんどありませんでした。

行動して結果を出していることを見せていれば、その他のことは大目に見られる。そんなことを感じてました。

受験は結果的に早稲田大学は落ちました。しかし、1年間の努力した経験はほんとうに人生の宝物になりました。先生に「早稲田を目指したら」と言われなければ、青学にくることも、東京に出てくることもなかったと思います。

大事な人ができた大学時代

青山学院大学の文学部日本文学科に合格し、北海道の田舎から晴れて東京の大都会渋谷の大学に通うこととなりした。

1年生の秋に青学一チャラくないテニサーに入る

1年生では文学散歩の会という日文の人が多い部活動に入りましたが、活動はたまに行くくらい。そんなとき、友だちが入っているテニスサークルが女子が全然いなくて存続の危機だから入らない?と誘われました。運動する機会もなかなかないし、せっかくだからいっか!と思って軽い気持ちで入りました。そこはテニスもほどほど、飲みもほどほどの、おだやかなサークルでした。

お互いに初めての恋人

テニスサークルでは同期は約15人ほど。そのうち女子はわたし含め3、4人でした。それぞれベクトルが違い、また参加率も違ったため自然とわたしはいつもサークルにきている男子と仲良くなって同じメンバーで遊んでいました。そのなかで、わたしに好意をもってくれて告白してくれた人と付き合うこととなり、お互いに初めての恋人同士、わたしにとって初めての彼氏ができました。彼は思っていることは何でも言い合おうとしてくれて、そのおかげでわたしたちはほんとうに仲良しで、なんと3年生2ヶ月も続きました。しかも、お互いに地方出身でひとり暮らしだったため、付き合い始めて半年ほどで半同棲状態になりその後はほんとうに常に一緒にいました。

他の人と付き合ってみたい

それだけ一緒にいると、もう恋人というよりは家族、大親友という雰囲気に。お互いの家族も知っていたし、わたしも彼の実家に何度も遊びに行っていて、自然と結婚の話もでていました。

だけど、このまま結婚したら、もう好きな人に感じるどきどきや、好きな人に近づくまでのきゅんきゅん、付き合ってからの浮ついた気持ちを一生感じることなく人生終わるのかもしれない、という思いが二人にはありました。もちろん、初めての恋人同士で付き合って結婚というのを素敵!と思う人もいると思いますが、わたしたちはいろんな経験をしたいと考えるタイプでした。

そして、最初に行動したのが彼。思っていることは何でも言い合い合う関係だったこともあり、彼はわたしに「他の人と付き合ってみたい」と言ってきました。最初は流石に多少ショックを受けましたが、気持ちはわかるし、お互いに絶対的な信頼があったので、彼が他の女の子と関わることについてわたしが不安になることも全くありません。わたしは好きな相手にはやりたいことをやってほしいと思っているので、彼の申し出を受け入れました。ただ、わたしは彼のことが大好きだったし、これまでふたりのために使っていたお金と時間が他の人にいくことには少し不満がありました。さらに、わたし自身が彼に依存している部分もありました。

出会い系サイトに登録

当時、あまりにも二人でいすぎていてわたしは彼がいないと行動できないような状態でした。

よくある「わたしにはあなたがいないとだめ」的な依存というよりは、仲が良すぎて楽しいことはぜんぶ共有したい、一人でやるのはもったいない!という感じでした。ネットでアニメを見るのも、映画を見るのも、ご飯を食べるのも、どこかへ出かけるのも、お互いが一番の親友だったのでなんでも一緒でした。

お互いに楽しくて良かったのですが、どうしてもお互いに合わせながら行動するのでフットワークが重くなりがちだし、良くないことも許し合ってしまうのでだめだな~とは思っていました。

そこでなんとなくネットで見た「依存先を増やせば依存じゃなくなる」的な言葉を見て「確かに」と思って始めたのが出会い系でした。彼とは一緒にいすぎててもはや大親友・家族だし、どきどきしたりしたいな~という気軽な気持ちで始めました。

人との出会いと別れ

初めは、他の男の子に興味のなかったわたしでしたが、いざはじめてみるといろんな男の子とやりとりするのが楽しくなっていきました。彼とは感じることが少なくなっていたどきどき、きゅんきゅん、高揚する気持ちを感じるようになって、実際に相手に会うようにもなりました。出会い系サイトは女の子が少なく男の子が多いのか、女の子側はわりとやりとりもしようと思えばできるし会おうと思えば会えました。

そうしてわたしはいろんな男の子とデートするのを楽しんでいました。だけど、一方で特に変わらない毎日を過ごす彼。一応、他の異性と会うときはお互いにわからないようにしようというルールです。でも、半同棲状態で2年半過ごしてきて、同じ家にいて、それは無理のあることでした。他の男の子と会うとき、わたしは彼に気を遣うし、彼は傷つくようになり、どうにかその状態を解決できないかたくさん話し合いをしました。

そしてお互いに納得して、同棲状態の解消、3年と2ヶ月の交際は終わりを迎えました。仕事の時間帯が合わず、一緒の時間がとれなかったこと。お互いに依存していたこと。彼は仕事を頑張りたかったこと。わたしはいろんな人と出会いたかったこと。いろんなことから、わたしたちはお互いの幸せを思いながら、別れるという選択をしました。

彼とはいまでも仲良しです。人生でいちばんの大親友といえば、お互いだと感じています。

出会いに魅せられ、人生を考えた社会人一年目

母ががんで亡くなった

社会人になって1ヶ月経つころ、ちょうどゴールデンウイークのとき、母が亡くなりました。母は、わたしが大学2年生のときに乳がんを発症し、一度は完治したものの再発。肝臓に転移してずっと闘病生活をしていました。だんだんと変わっていく母を見て、それが近いことはわかっていました。母はもう最後のほうは痛みを和らげるためのモルヒネで意識もなく、目が開いているときもぼんやり視点があっていない状態でした。わたしが東京から北海道の母のいる病院へ来てその次の日、母は息を引き取りました。

母の死から感じたことは、人はやりたいことがあっても、人生が終わるときはあっけなく終わるということでした。どんなにやりたいことがあっても、死ぬときは死ぬ。母が亡くなって、わたしはある意味で、それまで縛られていた固定概念から自由になりました。自分の人生、たったいまから、やりたいようにやろう。そう感じました。

Tinderで会いまくる

それからのわたしは、それまでよりいっそうしたいことをするようになりました。人生はいつ終わるかわからない。それなら自分の人生をめいっぱい楽しんで死にたい。「今」やりたいことをやらなきゃ。いろんな人生の楽しみ方を知りたい。人生を楽しんでいる人に会いたい。一緒に人生を楽しむ人と出会いたい。

そんな思いで、たくさんの人に会いました。惰性で会ったこともあれば、期待を持って会ったこともある。そのとき限りの人もいれば、これからも関わっていきたいと感じる人もいる。わたしの人生の登場人物として居て欲しい人を見つけたい。関わっていきたい。そこにはいろんな働き方、仕事観、人生観を持つ人々がいました。

会社員ではない働き方

そうした出会いのなかで、会社員ではない働き方をしている人にも会いました。その多くはネットワークビジネスだったりして悪い話もよく耳にしましたが、特に偏見を持たないわたしは彼らの話も聞き、関わりました。

そしてこれからは会社に所属することはこれまでのように安定・安心ではなく、個人やコミュニティとして生きる力をつけていくのが大切だという考え方を知りました。就職活動のとき、ある企業の人がこれからは個人が複数の会社に所属するようになり個人の時代になる、ということを言っていて当時は半信半疑だった。でも、彼らからそういう話を聞いて、実際そうなのかもしれない、と感じました。また、そうして働いている人々が信頼し合える仲間を持っているのをとても良いなぁと感じ、自分も人生をともにして愛を注ぎたい仲間がほしいと考えるようになりました。

Twitterで知ったフリーランス

そうしてネットワークビジネスの人と関わって一時はそのいずれかで活動していこうとも思いましたが、世間と親の目は厳しいものでした。それでもわたし自身はやりたいことはやるスタンスで、別に詐欺だったら詐欺でまあいいやという気持ちで、そこで出会った人と関わっていたくて最終的にはそのなかのひとつに所属していました。

そんな矢先、父が弁護士に相談しわたしを辞めさせるように働きかけてきました。なんだかんだありながらも結局そうしたことが面倒になり、そのコミュニティに行くことはなくなりわたしはネットワークビジネスから手を引く流れになりました。

そしてあるとき、Twitterでフリーランスプログラマーのやまもとりゅうけんさんを知りました。ネットワークビジネスを会社に務めずにやっている人は個人事業主になりますが、フリーランスもまた個人事業主。興味を持ちました。それからいろんなフリーランスの人のTwitterやブログを見ていき、エンジニア、ライター、ブロガーなどの働き方を知りました。

大手の予備校の限界を見る

わたしはそのとき、新卒で大手予備校に勤めていました。受験で先生に支えてもらって東京の大学に進学した経験から、就職活動は人の人生の節目に関わり力になれる仕事がしたいと考え受験や成長に関われる教育業界と、就職に関われる人材業界で見ていました。

そして内定をもらい働きたいと思ったのがこの予備校でした。教職課程もとっていたわたしは教育実習も経験しており、教育の現場は生徒と関わるだけが仕事ではないとわかっていました。予備校での仕事も生徒ともっと関わりたい思いを持ちながらも、ほかのさまざまな業務に追われていました。

それはまだよかったのですが、わたしが予備校、というより会社という大きな組織で働くうえでの限界を感じたことが2つありました。どちらもわたしの担当生のことです。

個々の希望に柔軟に対応できない

1つは、早稲田を目指していた生徒のこと。わたしの担当は浪人生でMARCHレベルの私大文系学部を目指すクラスでした。でもなかには早稲田を目指す生徒もいて、彼はそのタイプでした。

夏休みが終わり秋からの授業が始まる頃、彼は早稲田を目指す最難関私立文系コースへのコース変更を希望してきました。ただでさえ、現役からさらに1年受験勉強に時間と労力をささげる浪人生。わたしは自分が受験生のときにまわりが自分をいちばんに考えてくれていたことから、彼にも後悔のない浪人時代をおくってほしいと考えていました。自分が学びたい環境で学び、結果にかかわらずこの1年やりきったと思える時間を過ごしてほしい。そんな思いを強く持っていました。

しかし、コース変更を希望していることを上司に伝えると、それは出来ないと却下されました。理由は、早稲田コースに通うには模試の偏差値がわずかに足りないこと、途中での変更は本人にも負担になること、簡単に変更を認めるとその他も認めなければならなくなり対応しきれなくなること。わたしは納得ができず交渉しましたが、判断は覆りません。悔しくて、初めて職場で目が潤みました。

結局、彼はコース変更が叶わずそのままのコースで勉強を続けることに。クラスの中でも成績上位の彼でしたが、受験本番ではMARCHにも届かず、本人はかなり落胆する結果になってしまいました…。もちろん、どの環境においても本人の努力がいちばん重要であると考えています。でも、浪人という決断をしてわたしたちの場所を選んでくれたからには、本人がベストだと思える1年を過ごせるようにしたかった。大手の予備校という大きな組織のなかで、目の前の生徒に寄り添えない部分を感じました。

自分の意志を持って行動する生徒を応援できない

もう1つは、自分のペースで勉強したく自分が受けなくてもいいと判断した授業は受けない、という生徒でした。わたし自身が現役時代はそのように勉強していたし、自分の意志が非常に大切なのでわたしはそれを応援したいと思っていました。

でも、会社としては授業は原則必ず出席するべきもので、わたしも本来そのように言わなければいけない立場だ、と後で上司に注意されてしまいました。それも納得ができませんでした。

わたしは自分が大切に思う目の前の人にしてあげられるだけのことをしたい。でも会社にいれば、会社の方針と目の前の生徒の状況とで合わない部分が出てきたときに、会社の人間として対応しなければならない。そこに苦しい思いをしました。

動き始めた現在

4月末に退職

そうして、いろんな人と出会いたいこと、そのために自分がいろんな人に出会える働き方をしたいこと、会社における限界を感じたことから、退職を決めました。

普通に小学、中学、高校と上がって、大学に4年間通わせてもらって、苦労した就活も乗り越えて大手予備校に就職して。そんな、いわゆる人生のレールを、自らの足で降りました。裸足で感じる地面の冷たさに凍えたり、ころがる石に足を怪我することもある。でも、それまでよりずっと自分の足で立って、一歩一歩踏みしめて、足裏から地面を感じながら、生きていることを感じながら、進んでいけると思います。

田舎フリーランス養成講座に参加

4月末に退職してからは、5月の中旬から田舎フリーランス養成講座に参加しています。これは、フリーランスでライターやブロガー、プログラマーとして活動するためのスキルを学ぶことができる1ヶ月間のプログラム。

わたしはブロガーになろう。もともと国語の先生のように、言葉を通して人に何かを伝える仕事がしたかった。そして、わたしが何らかの形で誰かの人生に関わる事でなにか影響を与えられることがしたかった。それが、ブログでできるんじゃないか。そんなふうに考えています。

わたしが出会う人たち、人生、価値観のことを言葉にして残すことで、それを見た誰かが今より少しだけ視界が広がったり、可能性が増えたりしたら。そんなことを思い描きながら、充実した日々を過ごしています。

これから

いなフリが終わったらどうしようか。わたしは東京の家も引き払って、身ひとつでいなフリに参加しました。お金のためだけにやるブログにはしたくないし、自分のために文章を書くので、収入源は他にも作るつもりでいます。

これから今まで以上にいろんな人に出会って、知って、やりたいことができて、やってみる日常を過ごしていく。それはきっと会社員とはまた違う大変さがあるけど、自分の人生やったもん勝ち。死ぬときは死ぬし、苦しいときは苦しいけど、ここじゃなきゃ味わえない感情を感じながら生きていく。

それがわたしの生きるこれからの人生です。

ここまでとてもとても長いプロフィールを読んでいただいて、ほんとうにありがとうございます。このプロフィールを読むだけの時間、あなたの人生に関わることができてとても嬉しい。よければぜひ、わたしのこれからを見守ってください。やりたいことはやるし、やりたくないことはやらない。そんなわたしの物語。

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ABOUTこの記事をかいた人

会社員時代にマッチングアプリのTinderで100人以上と会い、出会いに魅せられ会社を辞めた23歳。出会い系ブロガー。出会い、フリーランス、価値観、感情について発信します。